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2007年10月 2日 (火)

「政治は生活」の違和感

テレビを見ていると民主党の記者会見場の背景に、
「政治とは生活である」というフレーズがちらちら見えます。
私はこれを見るたびに違和感を覚えます。
なんだか理由はわからないけれど、違和感を覚えて、
この嫌な感じはなんだろう、と自問自答してきました。

民主党のキャッチコピーの「国民の生活が第一」には、
なにも違和感を覚えません。
当たり前じゃん、という感じで、すーっと腑に落ちます。
なかなかいいフレーズだと思います。

しかしなぜか「政治とは生活である」には、いや~な感じを受けます。
先日、早野透氏の本を読んで、やっとその理由がわかりました。

これは田中角栄氏の口癖の「政治は生活だ」とまったく同じです。
田中角栄氏直系の小沢代表だからこそ「政治とは生活である」なんだと、
やっとのことで気付きました。
小沢代表がやってきたこと、やろうとしていることがよくわかりました。

早野氏の著書(*)から該当部分を引用させて頂きます。
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角栄はいつも「政治は生活だ」と演説していた。
そこで見たものは、人々の生活の隅々に目を配って
国の予算を配っていく「角栄の王国」だった。
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きっと小沢代表は田中角栄的な手法を用いて、
政権を獲得しようとしているのだと思います。
先の参議院選挙の民主党の公約を見れば明らかですが、
財源を無視して、バラマキ公約のオンパレードでした。
民主党の3大公約は、農家の所得補償、子ども手当、年金の全額支給と、
すべて「国が国民に現金をあげますよ」という公約でした。

田中角栄的な利益誘導政治を復活させるのが、
小沢民主党流の政権獲得戦略なのだと思います。

しかし、田中角栄的政治手法が通用した時代と、
国の借金が800兆円を超えて、少子高齢化が進む今では、
時代背景がまったく異なります。
田中角栄的な利益誘導政治の復活を許してはいけません。

政治(=政府・国家)が国民生活の隅々に目を配るというのは、
ある意味で中央集権的な大きな政府路線に近づく発想です。
国民の生活が困らないように政府が目配りするのは当然ですが、
そこで「政治は生活だ」とばかりにストレートに政治(政府)が、
前面に出てくることに違和感を覚えます。
ここで言う「政治」とは、政府のことであり、国家権力のことだと思います。
政府が国民生活の細かなところまで口出しするのが、
21世紀の日本の社会のあり方として望ましいとは思いません。
政治と生活がベタッとウェットに密着しているのが、利益誘導政治の特色だと思います。
利益誘導政治、・バラマキ政治からの脱却を目指せば、
「政治とは生活である」という感性から離れていくはずです。

自立した市民からなる成熟した市民社会こそが、
これからの日本にふさわしいと私は考えます。
政府と企業(営利セクター)およびNPO(非営利セクター)が、
一緒になって公共セクターを担っていく、という「新しい公共」概念こそ、
これからの日本社会のあり方だと思います。

「新しい公共」という発想に立った社会においては、
「公(おおやけ)」を政府(=政治)が独占するわけではありません。
「公(おおやけ)」を政府と市民社会(企業+NPO)で協力して支えます。
そこでは政府の果たす役割がこれまでより限定的になり、
政治のあり方もこれまでと異なるものになるでしょう。

「新しい公共」の担い手が増え、地方分権が進み、小さな政府が実現できれば、
政治家が利益誘導を行う余地が少なくなります。
そうすれば「政治とは生活である」というモットーに、
なんとなく違和感を覚える人が増えるでしょう。

*早野透、「日本政治の決算」、講談社現代新書、3ページ、2003年

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