2012年4月26日 (木)

英語公用語化論への抵抗:二言語使用の悲劇

フィリピンの国語はフィリピノ語(タガログ語)ですが、
公用語としてはフィリピノ語と英語が使用されています。
公文書や契約書等は、ほとんど英語で書かれています。

すると、教育言語は、たいへん複雑な様相を示します。
フィリピノ語、地方語(セブアノ語等)、英語の3種が、
教育段階や教科によって使い分けられています。

私がフィリピンに留学していた95年頃の感覚でいうと、
そもそも標準語のフィリピノ語(タガログ語)でさえ、
地方にいくとあまり通じないことが多かったです。

当時、フィリピンの小学生の算数の教科書を見せてもらって、
たいへん驚いたのですが、なんと英語で書かれていました。

フィリピンの小学校では、国語、社会等はフィリピノ語で教え、
英語、算数、理科等は英語で教えるスタイルでした(当時)。

さらに、現地語がタガログ語地域以外の小学校低学年では、
地方語を使って教育しているので、小学校で3言語を使用します。
私のいたネグロス島は非タガログ語地域なので、3言語でした。

フィリピンに留学していたと言うと、人から「山内さんは、
タガログ語ができるんですか?」と尋ねられます。
私のいた島では、誰もタガログ語をしゃべってませんでした。

私がタガログ語を学んだのは、上智大学の社会人向け講座で、
会社帰りに半年通いましたが、まったく上達しませんでした。
自分の語学のセンスのなさを実感しただけの講座でした。

本題に戻ると、フィリピンである程度以上の教育を受けた人は、
基本的に英語を話し、英語で読み書きができます。
私の留学先の大学でも、当然のように英語で教えていました。

グローバル化する中でフィリピンの中間層以上は英語ができて、
大きなメリットがありますが、良いことばかりでもありません。

小学生の算数の教科書を見て思ったのは、英語ができなくては、
算数や理科も勉強できないという悲劇です。
その悲劇は、中高になるとさらに深刻化します。

日本の中学生だったら、国語は苦手だけど数学は得意とか、
逆に理数科は苦手だけど国語は得意というケースがあるでしょう。

しかし、フィリピンの中高学生(中高あわせて4年制)の場合、
英語ができないと、国語以外のすべての教科が学べません。

大学に進学する子どもは、だいたい英語で学べるからよいとして、
中高で教育を終える子どもたちにとっては、英語ができないから、
社会に出て必要な基礎的な知識を習得できないケースが出てきます。

また、大学教育を英語で受けるということは、母語でない言語で、
社会科学や理工系の学問を学ばなくてはいけないということです。
英語が苦手な学生には、かなりのハンディキャップになります。

実際にフィリピンの大学で1年間学んでみて気付きましたが、
フィリピン人なら誰でも英語が得意ということではありません。
英語が苦手な学生は、教科書と格闘するのに苦労していました。

日本の大学生なら英語が苦手でも、政治学や農学といった科目で
高度な専門知識を母国語でマスターすることが可能です。

専門知識を母国語でマスターした後に、英語で学んだ方が、
効率的なケースも多いことでしょう。

ノーベル賞級の科学者でも、英語が得意でない日本人はいます。
たとえ英語は拙くても、研究レベルが高ければ、世界が注目します。

フィリピンの場合は、そういうケースは起こりにくいと思います。
なぜなら英語ができないと、専門科目が勉強できないからです。

日本では「英語力が高い(または)専門分野の能力が高い」人は、
社会的に十分に活躍する機会は用意されています。
英語が不得意でも、専門分野の能力が高ければ、活躍できます。
両方の能力が高ければ、さらに有利になるということです。

フィリピンでは「英語力が高く(かつ)専門分野の能力が高い」人しか、
社会的に活躍する機会はないと言っても過言ではありません。
専門分野の潜在的能力が高くても、英語力がないという理由だけで、
その能力が十分に発揮されないことが多いことを意味します。

英語も専門分野の能力も高いフィリピン人にとっては問題ありません。
しかし、そういう人は、社会の中で多数派とは言えないと思います。
また、英語と専門分野の両方の能力の高い人は、どの国でも成功します。

フィリピンの教育事情を見て、日本は恵まれていると思いました。
英語の能力が高くない人でも、十分やっていける日本型システムの方が、
より多くの人に機会を提供できる点で優れていると思います。

日本でも英語公用語化論とか、社内の英語化が主張されますが、
個人的にはあんまりお勧めできない気がします。
英語力に自信のない人間のひがみと思われるかもしれませんが・・・

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2012年4月25日 (水)

小沢氏隠し子報道の疑問

今朝の新聞に某週刊誌の広告の大きな見出しで、
「小沢一郎に隠し子がいた!」とありました。
何となく違和感を覚えます。

小沢さんとは縁もなく、言葉を交わしたこともなく、
小沢一郎氏を弁護するつもりはまったくありません。

しかし、「隠し子」とされる人のことを考えると、
何となく嫌な気持ちになります。

子どもは親を選べません。
子どもに罪はありません。

婚外子だからとマスコミが騒ぎ立てることが、
その子の一生に悪影響を与えることなるなら、
報道するのは控えてほしいと思います。

日本では婚外子への差別がいまだ強いように思います。
欧米などでは段々と差別が弱まっているようです。

先進国の婚外子の割合はこんな感じです。

婚外子の割合 (1980年) (2008年)
日本:      0.8%    2.1%
スウェーデン: 39.7%   54.7%
フランス:   11.4%   52.6%  
イギリス:   11.5%   43.7%  

30年足らずの間に、婚外子が世界中で増えています。
いわゆる「シングルマザー」の増加ということでしょう。
フランスやイギリスでの増加傾向は、かなり顕著です。

シングルマザーにもやさしい政策をとっているせいでしょう。
親がどうあれ、子どもが不利益を被るべきではありません。

私は「婚外子がすばらしい」とは主張しません。
しかし、「婚外子はダメだ」とも主張しません。

スウェーデンやフランスでは、もはや婚外子が多数派です。
「婚外子以外への差別」さえ、あり得なくはない状況です。

国や社会が考えるべきは、親よりも、子どもだと思います。
どんな理由であれ、子どもが不利益を被ることには反対です。

婚外子というだけで差別したり、不利益を被る制度があるなら、
そういった制度は変えていかなくてはいけないと思います。
社会全体の認識も変えていかなくてはいけないと思います。

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2012年4月 4日 (水)

大学教育の質の問題

教育社会学者の苅谷剛彦教授(オックスフォード大学)が、
「漂流する大学(Academically Adrift:Limited Learning
on College Campus)」という本の書評を書かれていました。
その書評がたいへん興味深い内容でした。

最近、大学教育の「質」についていろいろ考えていたのですが、
この本に私が問題意識を持っていることに対するヒントがあり、
書評経由の孫引きで恐縮ですが、ご紹介させていただきます。

「漂流する大学」のポイント

・世界中で高等教育(=大学教育)の「大衆化」が進んでいる。
 その結果、費用がかさむようになり、費用に見合う成果に関して
 大学教育の「質」の議論が盛んになってきている。

・本書の著者は「大学学習評価」というテストの結果を用いて、
 大学教育の成果として知的能力が上がっているかどうかを測定し、
 「大学での学習の軽量化が進んでいる」という結論に達した。

・本調査の結果、「批判的思考力」「分析的な論理的思考力」
 「問題解決能力」「文章力」の4つの観点で評価した能力が、
 大学教育を受けても、あまり伸びていないことがわかった。
 これらの能力がまったく伸びていない学生が45%もいた。

・しかし、教員が高い要求水準の学習を課した学生は、
 知的能力はかなりの割合で伸びていた。
 知的能力が伸びないのは「学習の軽量化」のせいである。

・大学教育の拡大の結果、選抜度の低い大学で「軽量化」が進む。
 学生を「消費者」と見なし、学生の要望に答えた結果として、
 学習の「軽量化」が進んでいる。
 成績評価の厳しい教員や学習への要求の高い教員は、敬遠される。

・メディアの大学ランキングを学生や保護者は重視する。
 これらのランキングは、研究レベルに基づくことが多い。
 従って、大学側も、教育よりも、研究を重視するようになる。

・著者は「学習の軽量化」に警鐘を鳴らしている。
 その上で「学ぶ文化」の再構築を提唱している。
 大学生がきちんと学ぶカリキュラムや教授法を推奨している。

以上のようなアメリカの大学の現状は、日本でも同様です。
日本の大学は、ほとんど勉強しなくても卒業できるケースが多く、
むしろ日本の大学の方が、問題は深刻です。

まず大学側(教員側)が、高い要求水準の学習を学生に課し、
ちゃんと勉強しないと卒業できないようにするのが先決です。

きちんと本を読み、課題の文章を書く、という当たり前の学習を
4年間きっちりやった学生とそうでない学生の差は大きいです。

大学がレジャーランドでよかったのは、バブル崩壊まででしょう。
企業が人を育てる余裕を失った現在、自分で学ぶことが大事です。
学生時代に「学び方を学ぶ」ことが、一番の就職活動です。

大学教育の質の向上、そのための学習の強化が必要です。
国会の教育論議は、高校授業料無償化とか、奨学金制度とか、
学費のことばかりです。もっと教育の中身も議論すべきです。

*苅谷剛彦著「世界の思潮:漂流する大学教育」
 アステイオン(2011年:75号)

*Ricard Arum & Josipa Roksa著「Academically Adrift:
 Limited Learning on College Campus」
 The University of Chicago Press, 2011

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2012年3月14日 (水)

英語教育をどこまで?

先日、ある市長さんが英語教育をもっと重視する必要があり、
そのために英語の授業時間を増やすべきと主張されました。

そこで、私は「では、どの教科を削るのですか?」と質問したら、
「他の教科は削らず、全体の授業時間数を増やす」と答えました。

これは教育論議でよく見られるパターンです。
責任のない第三者であれば、こういう答えで十分だと思います。

いろんな専門家が、自己の専門分野の教育が不可欠だと主張します。
金融の専門家は、すべての子どもに金融教育が重要だと主張します。
多くの人が、環境教育が必要だと主張します(私もそう思います)。

最近では「年金教育が必要だ」という有識者に出会いました。
小学生が、年金問題が心配で夜も眠れなくなったらどうするのでしょうか。

必要だと言われがちな「○○教育」として以下のようなものがあります。
 ・金融教育
 ・防災教育
 ・国際理解教育
 ・消費者教育
 ・環境教育
 ・開発教育
 ・情報教育

数え上げるときりがないくらいに、学ぶべきことが増えてしまいます。
従って「何かを増やすためには、何かを削らなくてはいけない」という、
きわめて当然の観点を、政策形成に携わる人間は持つべきです。

小中学校の授業時間数全体を拡大することは必要かもしれませんが、
英語の授業時間数を増やすためだけにそうするのは難しいでしょう。

市長という責任ある立場であり、政策形成の第一線に立つ人物としては、
英語の授業時間を増やすなら、他のどの教科の時間を減らすか考えるべきです。
他人事みたいな発言を許される立場ではありません。

また、市長さんが語る英語教育は、公立の小中学校の英語教育です。
小中学校という義務教育段階における教育政策を考えるときに必要なのは、
「すべての子どもに必要か否か」という観点です。

大学等の「エリート教育」と「すべての子どもの教育」は分けて考えるべきです。
「すべての子どもの教育」を欲張り過ぎると、授業について行けなくなる子が増え、
大きなロスが出てしまい、子どもにとっても不幸な結果に終わります。

すべての子どもたちに学んでほしいことは、本当にたくさんあります。
小中学校のカリキュラムというのは、本当はあれもこれも入れたいけれど、
泣く泣く内容を厳選していく形で決められているという感じでしょう。

この市長さんはたいへん優秀でハーバードの大学院をご卒業されていました。
その市長が「これからの時代に英語が必要だと思いました」とおっしゃって、
自己の体験に基づいて、英語の必要性を語っていらっしゃいました。

地方都市の子どもの多くが、ハーバードの大学院をめざすわけではなく、
そういう自分の体験に基づいて考えることの限界を認識すべきです。
市長さんは「エリート教育」を意識して考えすぎています。

日本人の中で日常的に高度な英語力を必要とされる人の割合は、
おそらく1割未満(実際は5%未満?)だと思います。

ホテルの従業員や駅員さん等、ときどき簡単な英語が必要な人の割合でも、
多めに見積もっても3割くらいではないかと思います。
日本人のうち英語の必要性を感じている人は3割くらいではないでしょうか。

英語の必要性を感じない人にとっては、英語の授業数の増加は迷惑です。
その分、国語や算数、社会といった社会人として必須の教科の時間が減り、
すべての日本人が身に着けるべき知識の習得がおろそかになります。

高校や大学で英語教育に力を入れるのは、まったく構いません。
しかし、小中学校で英語の授業時間数を増やすということの裏側には、
国語や算数、社会等の授業時間の減少があることを認識しておくことが、
行政のトップや官僚には求められます。

もちろん英語教育が現状のままでよいとは思っていません。
英語の授業時間数はそのままでも教員や教材の充実といった手はあり、
英語教育の質の向上のためにできることはたくさんあります。
前にブログで書きましたが、英語教員の英語力向上等から着手すべきです。

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2012年3月13日 (火)

被災地復興に大学誘致

このブログの見出しの「被災地復興に大学誘致」を見て、
「なに言ってんだ。アホか?」と思う人が多いでしょう。
当人はけっこうまじめに主張しています。

少子化時代で大学経営はたいへんだと言われています。
しかし、人気の高い大学は苦労をしていません。

国際色豊かな教育が特色の「グローバル4」と言われる大学は、
就職氷河期にも関わらず、学生の就職活動が好調で人気です。

「グローバル4」とは、立命館アジア太平洋大学、国際教養大学、
早稲田大学国際教養学部、国際基督教大学の4つの大学です。

注目すべき点は、立命館アジア太平洋大学は大分県にあり、
国際教養大学は秋田県にあるという点です。
東京にある早稲田大学と国際基督教大学は無視します。

立命館アジア太平洋大学や国際教養大学のように地方であっても、
国際色豊かで質の高い教育を行えば、学生と企業の評価は高く、
場所はハンディキャップにはなっていません。

国際的な教育を売り物にする良質な大学を被災地に誘致すれば、
地元の若い人たちに希望を与えることになると思います。

スタンフォード大学がシリコンバレーを生んだように、
大学があれば、起業する人も増える可能性があります。

東北の被災地にこういった国際的な大学の設立をサポートしたり、
大学特区みたいな制度を設けて海外の一流大学を誘致したり、
大学教育で地域の復興を支えることも夢ではないと思います。

1990年前後には、海外大学の日本校の進出が相次ぎましたが、
バブル後の不景気もあり、その後撤退した大学が多いです。

その背景には大学の経営努力の問題もあるかもしれませんが、
日本のさまざまな規制や差別が影響しています。

例えば、学校法人の法人格がとれず、学生が通学定期を買えない。
学校法人じゃないと、企業のように法人税を払わなくてはいけない、
といった不利な点もありました。

また、卒業しても日本の学士号がとれないことも要因のひとつでした。
海外の大学の日本進出を拒むような政策がとられてきました。

しかし、世界では逆の流れがあります。
シンガポールやアラブ首長国は、世界の一流大学を誘致しています。
政府が音頭をとって環境を整備し、資金面でもサポートしています。

欧米の名門大学が、シンガポールやドバイに現地校を設けて、
国内外から優秀な成績の一流の学生を集めています。

この際だから、東北三県には「大学教育特区」でも設置して、
海外の一流大学を誘致し、キャンパス整備に補助金でも出して、
世界中から学生を呼べる大学を作ったらよいと思います。

大学も東京一極集中の傾向があるので、地方にも良い大学が必要です。
近くにアメリカのアイビーリーグの名門大学の分校ができたら、
伝統ある東北大学にも良い刺激になると思います。

また「最近の大学生は留学しなくなった」という声も聞かれますが、
海外の一流大学の日本校があれば、留学しなくても大丈夫です。

被災地復興のための「大学特区」はどうでしょうか?

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2012年3月 7日 (水)

英語教師の英語力不足

文部科学省から英語担当教員の英語力のデータをもらって驚きました。
公立中学校の英語担当教員のうち、英検準一級あるいはTOEIC730点以上等
一定の英語能力を有している人の割合が予想外に低いです。

英語担当教員とは教員免許の外国語(英語)を所有している人ですが、
英検準一級やTOEIC730点以上の人が、わずか27.7%しかいません。

調査対象となっている公立中学の英語担当教員27,633人のうち、
英語の外的試験を受けたことがある人が約75%しかいません。
そのうちわずか36.8%の人しか一定の英語能力に達していません。

中学校では約3割ほどの英語教師しか一定の英語能力に達していません。
高校になるとだいぶ改善され、約7割が一定の英語能力に達しています。
しかし、それでも3割の高校の英語教員は英語力不足です。

いまの日本の中等教育(中学校と高校)の英語教育の重要課題は、
英語教員の英語力不足だと思うようになりました。
教員の質が低ければ、授業時間数を増やしても意味がありません。

ここで言う「一定の英語能力」にあたるTOEIC730点というのは、
英語を教えられるレベルではないと思います。
受験勉強が終わったばかりの大学生でもこの程度なら結構います。

基礎的英語力がついて本格的に学ぶ準備ができた、という程度です。
TOEIC730点ではおそらく英字新聞も十分なスピードで読めません。
したがって、生徒に英作文を指導できるレベルには至りません。

TOEIC730点というレベルは、能力とか才能というレベルではありません。
まじめに文法と単語を覚えれば、ほとんどの人が到達できるレベルです。
語学の才能がないと厳しいというレベルではありません。

しかも普通のサラリーマンにTOEIC730を求めるているわけではなくて、
英語を教えるのが本業の教員に求める英語能力の基準です。
TOEIC730以下というのは、英語教員にプロ意識がない証拠です。

公立中学・高校の英語担当教員というのは、言うまでもなく公務員です。
英語力のない通訳は失業してしまう(そもそも雇ってもらえない)のに、
英語力のない英語教師は安定した公務員の地位に就いています。

しかし、TOEIC730以下では、民間の英語学校ではとても雇ってくれません。
公立中学校の英語教員の7割近くが、TOEIC730点以下という惨状は、
早急に改善しなくてはいけません。生徒がかわいそうです。

そもそも採用するときに英語力の有無が重視されないのが問題です。
採用時の英語力を厳しく審査するのはもちろんのことです。

すでに採用されている英語教員でも一定期間内に英語力が向上しなければ、
英語教員をやめさせて他の科目に担当替えする等の措置が必要です。
英語教育の危機的な状況は、英語教員の英語力不足から始まっています。

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2012年2月29日 (水)

安易な議論:大学の無償化

予算委員会の議論を聴いているといろんなテーマがあります。
最近何度か耳にしたのが、大学の授業料無償化の議論です。
一見すると良さそうな議論の典型と言えるかもしれません。

民主党政権になってから高校授業料無償化が実現したこともあり、
次は大学の授業料無償化が注目されつつあるのかもしれません。
進学率が9割台後半の高校無償化と、約5割の大学無償化では、
意味合いが異なり、高校の方がまだ納得を得やすいです。

大学院で「教育経済学」のコースを履修した者としては、
大学授業料無償化には、簡単にはうなずけません。
大学の無償化を推進する理由と背景に納得がいきません。

大学の授業料無償化を主張する人は「貧しい家庭の子どもでも、
大学教育を受けられるようにすべきだ」という理由を挙げます。

「貧しい家庭の子どもでも大学教育を受けられるようにすべき」
という点に関しては、私もまったく異論はありません。

私も母校の奨学金基金に募金したことがあります。
学生時代には学生寮の仲間と「あしなが育英会」の街頭募金に参加し、
さらにフィリピンのフォスターチルドレンのために寄付していました。

学生時代の友人のフィリピン人がアメリカの大学院に留学するときに、
銀行の残高証明を提出して、身元保証人になったこともあります。
それくらい「貧しい家庭の子どもが大学教育を受けられるようにすべき」
という意見には心から賛同しています。

しかし、貧しい家庭の子どもが大学教育を受けられるようにするには、
大学の授業料無償化以外にも、いろんなやり方があります。

例えば「低所得の家庭の子どもに奨学金をあげる」というのが、
もっともシンプルでわかりやすい解決策だと思います。

奨学金にしても貸与と給付(渡し切り)の2種類が考えられます。
貸与にした方が、同じ金額でより多くの学生を支援できます。

また、将来、外資系企業でバリバリ稼ぎそうな学生には貸与にして、
僻地医療に従事したい学生には給付にする、といった手もあります。
例えば、看護学部の学生には、奨学金を優先的に提供するのも一案です。

それから、夜間の大学や通信課程の大学の教育内容を充実させて、
働きながら学べる環境を整えることもひとつの解決策です。
あわせて夜間の学部への私学助成額を上げることも考えられます。
名門の国立大学の夜間学部を整備することも有効でしょう。

日本は先進国の中で社会人入学の割合がダントツで低い国です。
海外では25歳以上で大学に入学する人が2~3割います。
そういう人たちは、学費を稼いだ上で大学に進学しています。

社会人入学の条件を緩和し、それを受け入れる社会環境を整えれば、
貧しい家庭の子どもが高校卒業後にいったん働いて学費を貯金し、
そのあとで奨学金をもらいつつ大学に通う人も増えるでしょう。

自分の学費を稼ぐような苦労人のまじめな社会人入学生は、
企業だって評価するでしょう。そういうケースを増やすべきです。
さらに社会人入学生は、動機づけ・目的意識がはっきりしているので、
よく勉強する人が多く、周囲の学生にも良い影響を与えます。

大学に行く人も行かない人もいますが、税金は全員から徴収します。
大学に行かない人の税金で、大学授業料を無償化するということは、
「所得の移転」という側面が出てきます。

大卒の方が平均所得が高く、大卒以外の方が平均所得は低いです。
そうすると「低所得層から高所得層への所得移転」という側面が、
大学の授業料無償化に付いて回ります。

イギリスでは、裕福な家庭の子どもが名門大学に入る可能性は、
貧しい家庭の子どもが名門大学に入る可能性の55倍だそうです。
もしイギリスの大学の授業料が無料だと、お金持ちの子どもの方が、
貧しい家庭の子どもより利益を受ける可能性が格段に高くなります。

またヨーロッパで大学の授業料が無償の国に多いパターンは、
大学進学率が低く、かつ、税金が高い「大きな政府」の国で、
大卒エリートは社会的に重要という認識が強い国です。

大学進学率が高くて、かつ、授業料が無償の国は、税金が高く、
国民が納得した上で高い税金を払っている国です。
「大きな政府」の国では大学無償化も成り立つということです。

「大きな政府」という考え方を支持しない人は、
大学無償化を支持しない方が自然です。

日本のように、大学進学率が5割ほどもある国で、
大学無償化を実現するには相当な予算が必要です。

そうなると「まともに授業に出てないような学生まで、
授業料を無償にしてもよいのか」という議論が出てきます。
日本の大学は、勉強しなくても卒業できることが多いです。

そういう学生の授業料を税金で全額まかなうのが正しいのか。
あるいは「大学教育」といえるレベルではない大学まで、
税金で授業料をまかなうのが正しいのか、という疑問もあります。

しばしば、「アメリカの大学は入るのはやさしいが、出るのは難しく、
相当まじめに勉強しないと卒業できない」と言われます。
日本の大学もそうなら、大学無償化も意義があるかもしれません。

しかし、あんまり勉強していない大学生が多いのが実情でしょう。
きちんと知識や技能を身に着けた学生の学費を税金で払うのであれば、
社会的なリターンから正当化できる可能性は高くなります。
他方、勉強していない大学生の授業料無償化には、私は反対です。
若者を甘やかすのに税金を投入するわけにはいきません。

仮に大学無償化を実現するなら、その前提条件として、
大学卒業資格の厳格化が必要だと思います。
大学卒業時の学士号の認定要件をいまより格段に厳しくして、
知識や技能の習得を条件に授業料を無償化すべきです。

小中学校は義務教育ですが、大学は任意で行く教育機関です。
その学費まで全額税金でまかなうことには、慎重であるべきです。
もし仮に税金でまかなうなら、それに伴う義務を課すべきです。
義務とは、社会に有用な知識や技能を学生が習得することです。

さらに国内の大学に進学する人には無償化は魅力的ですが、
海外の大学に留学する人にはメリットがありません。
海外留学に行く人が、いま以上に減るでしょう。

おそらく海外と国内の大学のどちらに行くか迷ったら、
国内の大学を選ぶでしょう。だってタダですから。
大学無償化は、若者の内向き化に拍車をかけるでしょう。

いろんな要素を考えると、安易な全面的大学無償化よりも、
さまざまな政策をミックスするのがベターだと思います。
奨学金拡充、社会人入学拡大、特定の学科の授業料無償化、
留学用奨学金の充実など、いろんな手があります。

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2012年2月27日 (月)

小中学校の留年は非効率

「大阪維新の会」の提案には、おおむね賛同できますが、
すべての政策に賛同できるということでもありません。
個人的には「あれっ」と思う提案もなくはないです。

大阪市の橋下市長が、成績の振るわない小中学生を
留年させる制度を取り入れるよう提案しました。
これなんて「あれっ」と思ってしまう提案です。

途上国の教育統計を見ていると、ときには初等教育の就学率が、
110%といった数字が出てきて混乱することがあります。
日本の常識で考えると、就学率が100%を超えるのは変です。

しかし、途上国では留年が多くダブってしまう子ども出て、
その結果、就学率が100%を上回ることになるわけです。
以前から問題視されてきました。

病欠や貧困で一時的に小中学校に行けなかった子どもたちが、
学び直すためという場合には、留年にも意味がありますが、
そういう「良い留年」ばかりとは限りません。

まず留年したからといって成績がよくなるとは限りません。
もし素行の悪い子どもが何年も同じ学年に留まっていたら、
他の子どもへの悪影響を与える可能性もあります。

最近OECDが出したレポートでも、学校教育での留年について、
「コストがかかるうえ教育成果の引き上げでも効果的ではない」として
廃止を求める提言を出しています。

OECDレポートでは、留年の欠点として、コスト増に加え、
学習到達度の生徒間格差の拡大、自尊心への悪影響、
問題行動に出る傾向を高めることなどを列挙して、
留年より効果的な代替策として学習支援や自動的な進級を推奨しました。

日本では「自動的な進級」をすでに採用しているわけですから、
OECDのレポートに沿った政策が長年とられてきました。
ある意味でOECDは「日本を見ならえ」と言っているわけです。
せっかく評価されている制度を変える必要はありません。

教育の国際比較をかじったことのある人なら、すぐ気付く論点です。
ぜひ教育政策の専門家の意見を聴いて、誤った方向に向かわないよう、
ご注意いただきたいと老婆心ながら思います。
他の政策は支持しているので、留年制度は慎重に願いたいと思います。

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2012年2月20日 (月)

東京大学の秋入学の是非

ちょっと前に東京大学が秋入学への全面移行を表明し、
賛否両論のさまざまな議論を呼んでいます。
他大学も賛同する動きもあり、経済界も協力を表明し、
公務員試験の時期の見直し等も検討しています。

9月入学にすれば、1)海外からの留学生を呼びやすくなり、
2)高校卒業後の半年間の「ギャップ」をボランティア活動や
インターン、短期留学等で有意義に過ごせる、という意図です。

春と秋の両方の入学時期を選べる方式がよいと私は思います。
私の母校の国際基督教大学(ICU)ではずっと前から、
春(4月)と秋(9月)の入学時期を選ぶことができました。

春と秋の入学時期を選べると同時に卒業式も2回やります。
3月卒業と6月卒業があり、4年間で卒業する人もいれば、
4年半で卒業する人もいます。

6月卒業だと就職がたいへんかと言えば、そうでもありません。
9月入学生でも4年生の3月までにうまく単位と卒論を終え、
あとは卒業式に出席するだけ、という状況に持っていけば、
3月卒業生と同じような条件で企業に就職ができます。

東大の「一律秋入学システム」では硬直的になって、
既存のシステムを大幅に見直しする必要がありますが、
「秋と春の選べる入学システム」ならより簡単だと思います。

また、企業側もこれまでの4月一律採用システムを見直して、
日本の大学卒業生も海外の大学卒業生も採用しやすいように、
通年採用に切り替えていけば、就職市場の柔軟性も増します。
そもそも新卒にこだわる就職の仕組みも問題だと思います。

大学を出た後、留学したり、ボランティア活動をやったり、
世界を旅したり、様々な体験をした人が、新卒より不利な制度は、
何となくおかしい気がします。

企業が新卒にこだわらなくなれば、4月入学でも9月入学でも、
あんまり関係なくなります。就職浪人という言葉もなくなります。
東大もぜひ「一律秋入学」のような硬直的なシステムはやめて、
より柔軟なシステムを検討されたらよろしいと思います。

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2012年2月14日 (火)

「今どきの若者はなってない」シンドロームへの対処法

教育問題というと「今どきの若者はなってない」とか、
「最近の若い親はなってない」といった感じで批判され、
家庭の教育力の低下などが悪者にされる傾向があります。

私は「今どきの若者はなってない症候群」と名づけて、
あんまり気にしないように心がけています。
「今どきの若者」が怠惰で無能で無礼になり始めて4千年ほどです。

エジプトのパピルスでも、メソポタミアの粘土板でも、
中国の甲骨文字でも、イスラム原理主義者の最新サイトでも、
「今どきの若者」を非難する文言を見つけられるでしょう。

教育社会学者の広田照幸さんの本におもしろい指摘があります。
出典を明記して、そのまま引用させていただきます。(*)
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1950年代には、青少年を苦しめる社会関係の多くは、
「日本社会の前近代性」とか「封建的性格」で説明されて
いました。家父長が絶対的な権限をにぎるイエ制度や、
主人が使用人を隷属させる封建的主従関係のなごりが、
年少者たちを抑圧状況においている、というのです。
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教育問題について語る人の多くは、家庭の教育力が低下したとか、
コミュニティの絆(きずな)が弱くなったとか、親がダメだとか、
深く考えていないような常套句を並べがちです。
そして「昔は良かった」としみじみと思い出にひたりながら、
映画館で「ALWAYS 三丁目の夕日」に感動して涙するのです。

「家庭の教育力」と封建的・家父長的な家族関係は、
かなりの密接に関係していると思われます。
父親がきびしく体罰なども含めて教育していたとすれば、
「家庭の教育力」は強くても、子どもの精神的抑圧はひどく、
それはそれで問題があったかもしれません。

コミュニティの「絆」は、時として「縛り」にもなります。
昔の農村社会は、逸脱すれば村八分が待っている世界であり、
息苦しさも同時に存在していたことも忘れてはいけません。
そうじゃなかったら、農村から都市に人口は流失しません。
経済的理由だけで、農村人口が減っているとは思えません。

意地悪な見方ですが、農村的な相互依存「絆」社会は、
ある意味で相互監視的で不自由な社会です。
治安はよく安定していて、同時に不自由さも持っています。
それを居心地良く感じて守りたい人がいても自然ですし、
息苦しく感じて都市に出ていく人がいても自然です。

「少年犯罪の凶悪化が進んでいる」なんてことを言うのが、
ワイドショーの“コメンテーター”の仕事なわけですが、
実際のところは、凶悪な少年犯罪は増えていません。
単にワイドショー等のテレビの報道量が増えているので、
そういう印象を受けているだけのことです。

凶悪な少年犯罪が多かったのは1950~60年代です。
いまの60~70歳くらいの人たちが若かった頃が、
若者が荒れていた時代と言えるかもしれません。
統計的には「今どきの若者」は、さほど凶悪ではありません。

そう考えると「今どきの若者はなってない症候群」に陥り、
あやまった政策判断を行わないためには、工夫が必要です。
現在の尺度で過去を見ず、相対化して判断する必要があります。

そのために「教育社会学」という学問は有効です。
広田照幸教授の本は、距離を置いて物事を見る訓練に最適です。
昔読んだ広田先生の「日本人のしつけは衰退したか」という
講談社現代新書(1999年)は興味深く、特にお薦めです。
頭の体操に広田照幸教授の本、ぜひご一読を!

*広田照幸、伊藤茂樹著「教育問題はなぜまちがって
 語られるのか?」、日本図書センター、2010年、154ページ

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